2019.11.18
この世に生まれて、もう20数年間も生きてきた。
まだ20数年、かもしれない。でも私にとってみたら、長い長い20数年間。
物心がついたのはいつ?
自分の考えを言葉にできるようになったのはいつ?
正確には、覚えていないことだらけ。
でも、いつのまにか私の中には、苦しみとか憎しみとか、そんな汚物たちが溢れるようになってしまった。
自分自身が頭の頂点から足の指先まで、全部全部、汚れた存在に思えて仕方ない。
そんな言葉たちが、全て私のために存在していたかのようにすら感じた。
それでも生きていた頃のこと。
心の中で、ずっと我慢している声があった。
生まれてきたくて生まれたわけじゃないのに、命は大切にしようと言われる。
死にたいなんて言うな、と怒られる。
生まれたくなかったという私の言葉は、周りの人々を悲しませる。
だから「生まれたくなかった」と声を大きくして叫ぶことはできなかった。
人に怒られるのは嫌だから。
周りの人が離れていくのは怖いから。
変な目で見られることに耐えられないから。
どうしてかな。
我慢して耐えているつもりだったのに。
我慢をすればするほど、「生まれたくなかった」と思う気持ちは膨らんでいった。
私たちは、この世に生を受けた瞬間からいつか死を迎えるまで、ずっとずっと生きていく。
「生きることは当たり前。」
当たり前すぎて、そんな確認をすることすらない。
ああ、そうか。
どうやら私は、当たり前すぎて触れられることすらない、「生きる」が苦しいらしい。
どうしてこんな人間なのに、私はまだ生きているのだろうか。
私は生まれたくなんてなかったのに、どうして生きてしまっているのだろうか。
膨張し続けて行った私の「生きたくない」。
私はいつのまにか、「つまりそれは『死にたい』だ。」と思うようにまでなった。
この命を誰かにあげられるのなら、いつあげても構わない。
誰か、早くもらってください。
何の意味もない、何の価値もない、私の人生を。
お願い、誰か。
今の私?
今でも私は、生きることが辛いと感じている。
でも同時に、「生まれたくなかった」が悪いことだとは思わない。
私は、生まれたくなかったけれど、生まれてきた。
生まれたくなかった人間として、生きている。
かつての私のように、「生まれてきたくなかった」と感じている人はきっと今もたくさんいることでしょう。
そして、生まれたくなかったと思ってしまう自分のことを、責めて、憎んで、恨んでいる人もいるだろう。
せっかく生まれてきたのに、親に申し訳ない。
生きたいと思いながら亡くなった人に申し訳ない。
世間に向かって、胸を張ることなんて到底できるわけがない。
そうやって自分を責めて、一人で抱えて、苦しんでいる。
ううん、違う。
いいんだよ、別に。
生まれてきたくなかったと叫んでも、いいんだ。
人間が生まれたくて生まれたかどうかは、私たちの人生においてさほど大切なことじゃない。
「私、生まれたくて生まれたくて仕方なかったんです!」
こんな風に、自分の意思で生まれたことを主張する人なんて居ないでしょう?
たとえば自分の意思が「生まれたくなかった」であるならば、それを悪く思う必要も、それで生きづらいと感じる必要も、全くない。
生まれたくなかったのに生きている人は、悪い人なんかじゃない。
私たちは、人間。
私たち人間は、考えることができる。
考えることができるから、強い力を持っていなくても、暖かい毛皮を持っていなくても、こうして今も種を守って生き抜くことができた。
そう、私たちはあくまでも、この地球の中で生き抜いてきた生物の一種にすぎない。
可愛い動物をペットにしたり、動物園で他の動物たちを眺めたりしているから、「人間は特別な存在」なんて感じてしまうこともある。
でも、人間だけが特別なわけではない。
他の生き物と同じように考えてみよう。
人間以外の生き物たちに生まれた理由がないのは、納得がいく。
彼らが生きる中で成し遂げないとならない使命は特にないのも、当たり前のように感じる。(強いて言えば種を残すことだろう。)
にもかかわらず、私たち人間は、自分が生きることに理由を欲しがる。
生きた証や、正解の人生を求める。
なぜ人生に意味を欲しがってしまうのか。
それは私たちが、考える力を持つ「人間」だから。
人間だけに何か特別な意味があるわけじゃないのに、人間は考えることができてしまうから、悩むのだ。
どうして私は生まれてきたのだろうか、と。
よく、両親が自分たちの子どもに向かって、「私たちを選んで生まれてきてくれてありがとう。」なんて言っているのを耳にすることがある。
何だか良い話に聞こえるけれど、少し考えてみれば、「そんなわけないでしょう」と気づく。
子どもが親や家庭環境を選んで生まれることなんて不可能だ。
事実、子どもが親を選んで生まれてこれるなら、虐待されて苦しむ子どもがいるわけないでしょう。
でも、これはこれでいいんだ。
両親は、子どもをただ愛している。
だから、選んできてくれたように感じる。
そんな比喩表現で幸せを噛み締めているんだから、そこに現実的であるかどうかなんて判断基準はいらない。
現実的に考えるなら、そもそも生まれたくて生まれてきた人なんて、この世に存在するのだろうか。
そもそも生まれる前に、「ああ人間として生まれたいなあ」なんて記憶があった人の話を、少なくとも私は聞いたことがない。
私たち人間は、別に誰も生まれたくはなかった。
私たち人間は、別に誰も悩みたくはなかった。
でも、たまたま、考える力を持っていた。
ただそれだけのこと。
この事実が辛い運命だと感じる人も当然いることでしょう。
きっとここまで読んでいる人のほとんどは、辛い運命だと感じてしまう人でしょう。
運命なんて綺麗な言葉にしなくてもいい。
私たちには、「生きる」という使命がある。
それは「人間」という一種の生物として与えられた使命だ。
ただ、私たちには幸か不幸か、その「生きる」を楽しむことも、苦しむこともできる。
生きるのは、使命だ。
使命を変えることはできない。
それが私たち人間にできること。
そう思ってしまうのも、人間だからこそ。
そう思うことができるのも、人間だからこそ。
「でも、生きることは厳しいじゃないか。」と言われるかもしれない。
「あなたは優しくない人だ。」と言われるかもしれない。
うん、きっとそうだ。
生きることは厳しいし、私は優しくない人だ。
でも、人間だけに全部が都合よく回って、人間だけが丸ごと全部優しくしてもらえる世界なんて、この世界にはない。
生きることは、厳しい。
生きることは、苦しい。
生きることは、辛い。
生きることは、悲しい。
でも、時に。だからこそ。
生きることは、楽しい。
生きることは、嬉しい。
生きることは、愛おしい。
そしてある時、優しくなれる。
そしてまたある時、優しさを分けあえる瞬間ができる。
一日一日を噛み締めることができる。
どうしてあなたが生まれてきたのか。
生まれてきた意味なんて、探さなくていい。
だって結局生きるんだから。
そしていつかは、どうせ死ぬ。
あなただけじゃない。私もそう。人間は皆そうだ。
人間だけじゃない。もっと命が短い生き物だってたくさんいる。
だから、生きる意味は探さなくていい。
それよりも、自分が一瞬でも笑える時間を探そう。
あなたが愛おしいと感じる瞬間を作ろう。
あなたが嬉しいと思う出来事を増やそう。
私たちは、どうせ生きるんだ。
これは、ネガティブな考えでも、押し付けでもない。
ただの事実として、この世界には「生きる」が存在している。
そもそも、私が生まれたくなかったと感じていたのはなぜか。
なぜかって、そんなのは生きるのが辛いから。
ただそれだけだった。
あなたもきっと、今が辛いでしょう。
ひたすらに毎日幸せに生きている人が、生まれたくなかったなんて思うことはきっとない。
今が辛くて苦しくて、この人生からすぐにでも逃げ出したい。
だから、生まれたくなかったと感じる。
私の心が感じていたのは、ただそれだけのことだった。
でもそれは果たして、いけないことなのか?
私は、生まれたくなかったと感じるのがいけないことだとは、まったく思わない。
ただ、「生まれたくなかった」と感じる時には、一つの気付きがある。
「今の私は、心が少し疲れているんだな。」ということ。
不幸と呼ぶほどのことではないけれど、日常に疲れてしまった。
嫌なことばかりが続くように感じて、元気がなくなってしまった。
そんな時に、私の中に「生まれたくなかった」さんがやって来る。
その瞬間が、私にとっては「ちょっと休憩しようか」の合図だ。
「生まれたくなかった」さんがいるから、私は自分の疲れに気づくことができる。
そのおかげで、「また歩き始めてみよう」と気持ちを新たにすることができる。
そう考えて見れば、私にとってはむしろ、「生まれたくなかった」と感じることは良いことだ。
生きる意味と言えば、私たちには「生きる」という使命があった。
どうして生きるのか。
それは、私たちが「人間」という種族をこの世界に残し続けるため。
元を辿って行けば、生物として人間が生きるのは、種の繁栄のために他ならない。
だからこそ、私たちは本能的に「生きる」が当たり前で、「生きたい」と感じるのでしょう。
でも、今あなたは、生まれたくなかったと苦しんでいる。
そもそも生まれてきたのが間違いだった、なんて感じている。
それはあなたの意思ではない。
あなたは本当は、生きたいはずなんだ。
今のあなたは、あなたの中に居た「生きたい」さんがちょっと消えてしまっているだけ。
生まれたくなかったと思うのは悪いことでも何でもない。
今のあなたの元には「生きたい」さんが居ない。ただそれだけのこと。
生まれたくなかったさんがやって来るのと同じように、またいつか生きたいさんも戻って来る。
それは生きたいさんの気まぐれな瞬間かもしれないし、あなたが招待してあげた時かもしれない。
いいじゃない。
私もあなたも、心の中の招待客がたくさんいるんだ。
楽しいホームパーティをするためには、お客さまがたくさん居るのはいいことでしょう?
心の中のお客さまと、上手に付き合っていければそれでいい。
今この瞬間も、どうしても「生まれたくなかった」が過ぎ去ってくれなくて、心の中が苦しみに支配されている人がいるでしょう。
あなたがこの記事を読んでも、全て綺麗事にしか思えないかもしれない。
結局人生には喜びなんてない、と感じるかもしれない。
それはそのままで、大丈夫。
この世に希望を見出そうと、無理に頑張らなくていい。
ただ、あなたの中にいる「生まれたくなかった」さんを認めてあげよう。
「生まれたくなかった」さんは、あなたの中からなかなか居なくなってくれないかもしれない。
もしかしたら、あなたの家に土足で上がり込んでくる近所の人のように振る舞うかもしれないし、嫌なお姑さんのようにあなたのやることなすこと全てに文句をつけてくるかもしれない。そろそろ帰って欲しいのに、なかなか帰ってくれないかもしれない。
「生まれたくなかった」さんと仲良くできなかったら、仲良くしなくてもいい。
「また言ってるよ」くらいに、適当にあしらってもいい。
「どんだけここに居座るの…。」と嫌な顔を見せたっていい。
どうせ、そのうちに去ってくれるから。
生まれたくなかったさんがいる間は、適当に流して生きよう。
全部受け止めようとしたら疲れてしまう。
真っ向から勝負しようと思っても、戦う必要がない相手だから、いつまで経っても決着がつくわけもない。
「生まれたくなかった」さんが居るなら、そのまま。
私たちは、ただそのまま、ここに居れば大丈夫。
生まれたことを肯定することも、否定することもなく、ただ生きていればそれでいい。
それが、私たちの使命だから。
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自ら望んで生まれてくる人間なんて居ないでしょう。